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坊っちゃん 松山 道後温泉

松山に移り住んではや16年。
西側正面玄関@道後温泉 by GEROPPA

松山をこよなく愛し、身も心も松山に捧げたネイティブマツヤマンを自負するワタクシですが、今ひとつネイティブになりきれない問題を抱えています。

「えーーー!いまさらそれをいう( ̄□ ̄;)!!」とびっくりされそうなのですが…

それはネイティブマツヤマンなら当然感じるべきと言われる

「坊っちゃん♡LOVE」

の感情が自分にはないことです。

ここ松山では、銘菓「坊っちゃん団子」、「坊っちゃん列車(市内電車)」、「坊っちゃんエクスプレス(高速バス)」、「坊っちゃんスタジアム(市営球場)」、ほか、松山を象徴するものに何かと「坊っちゃん」をプッシュするのがあたりまえです、なぜ「坊っちゃん」がそれほど好きなのだろう?というのがそれ。

でもって、移り住んだはじめの頃はいろんな方に「なぜ『坊っちゃん』なのか?」と、聞いてみたのですが、帰ってくる答えはだいたい以下のようなものです。

「松山は正岡子規や夏目漱石などを輩出した文学の街だからねぇ。特に「坊っちゃん」は漱石の代表作であり、松山を舞台に書かれた小説だからだよ。」

うーん(これってみんなこう言うし、ぱっと聞いただけではなにも疑問はないのですが)…。
しかしよく考えてみると…。

疑問1 小説「坊っちゃん」で、主人公坊っちゃんは、松山のことをかなりボロクソにけなして
     ますよね。松山を愛するワタクシとしては我慢ならないぐらいひどいけなしようです。
     なぜ、これほどけなされた内容の作品の主人公をなぜここまでもてはやすのでしょう?

     松山の人たちは夏目漱石の「坊ちゃん」をどう思っているんですか。つーか、読んでるんですか。

     ↑このQ&Aによると松山の人は心が広いからけなされても気にしない。
     とありますが…どうも腑に落ちない(けっして松山人が心が狭いといっているのではなく)。

疑問2 夏目漱石を輩出というが、漱石が松山にいたのはわずかの期間。地元輩出ということで
     あれば、なぜ現代俳句の礎を築いた大俳人正岡子規でないのでしょう?

     漱石が、松山にいたのは、1895年4月~1896年4月の1年間のみ。
     松山中学(現松山東高等学校)の教員をしていた期間。これで「輩出」っていうのは…。

     あと、よく「文学の街」というけれど、定量的な根拠をあんまり聞いたり感じたりしたこと
     がない。(つか、どこの街でもわりと文学者を輩出していたりゆかりがあったりするもの
     で、それらと比べて松山が突出しているかというとちょっと疑問。)

にもかかわらず、なぜ、

ほぼよそ者の漱石からのディスられっぱなしの「坊っちゃん」
なのか???
   

とは言え、ワタクシも松山を愛するものとして県外からのお客様をもてなすにあたり「なんでこれほど『坊っちゃん』なんだ?」という疑問に「それはかくかくしかじか」と、お答えせねばなりません。

ということで、自分なりに、解釈としてはこういうことなんじゃないかとお客さまに説明しています。

「坊っちゃん」と言えば文豪夏目漱石の作品のなかでも娯楽性が高く庶民的な国民的文学作品で、
夏目漱石の作品中第2位394万部の売上を誇る代表作のひとつ。
https://blogs.yahoo.co.jp/yuli_bidani/37488588.html

その上、映画化 5回、テレビドラマ 11作、アニメ 2作品
というように、作品の知名度が圧倒的です。

小説坊っちゃんでは、あれだけクソミソに言っていた松山の中で「住田温泉(道後温泉のこと)」だけは、「ほかの所は何を見ても東京の足元にも及ばないが温泉だけは立派なものだ。」と絶賛して、その風情を仔細に描写しており、漱石自身もたいそうお気に入りであったのだろうと思われます。

結果、作品が道後温泉を、文豪夏目漱石もお気に入りの、東京ではお目にかかれないほど、素晴らしく立派な温泉ということで、今では日本の名湯ベスト10の地位を確実なものとした、全国的な知名度の観光地に押し上げたのです?(詳しい数字が見つからないのであくまで憶測ですが)

  【参考】いうまでもなく、温泉を全国的に有名にしたのは、夏目漱石著「坊っちゃん」である

この住田と云う所は温泉のある町で城下から汽車だと十分ばかり、歩いて三十分で行かれる、料理屋も温泉宿も、公園もある上に遊郭がある。おれのはいった団子屋は遊廓の入口にあって、大変うまいという評判だから、温泉に行った帰りがけにちょっと食ってみた。今度は生徒にも逢わなかったから、誰も知るまいと思って、翌日学校へ行って、一時間目の教場へはいると団子二皿七銭と書いてある。実際おれは二皿食って七銭払った。どうも厄介な奴等だ。二時間目にもきっと何かあると思うと遊廓の団子旨い旨いと書いてある。あきれ返った奴等だ。団子がそれで済んだと思ったら今度は赤手拭(てぬぐい)と云うのが評判になった。何の事だと思ったら、つまらない来歴だ。おれはここへ来てから、毎日住田の温泉へ行く事に極めている。ほかの所は何を見ても東京の足元にも及ばないが温泉だけは立派なものだ。せっかく来た者だから毎日はいってやろうという気で、晩飯前に運動かたがた出掛(でかけ)る。ところが行くときは必ず西洋手拭の大きな奴をぶら下げて行く。この手拭が湯に染った上へ、赤い縞(しま)が流れ出したのでちょっと見ると紅色(べにいろ)に見える。おれはこの手拭を行きも帰りも、汽車に乗ってもあるいても、常にぶら下げている。それで生徒がおれの事を赤手拭赤手拭と云うんだそうだ。どうも狭い土地に住んでるとうるさいものだ。まだある。温泉は三階の新築で上等は浴衣をかして、流しをつけて八銭で済む。その上に女が天目(てんもく=一般に、「茶碗」のこと)へ茶を載せて出す。おれはいつでも上等へはいった。すると四十円の月給で毎日上等へはいるのは贅沢(ぜいたく)だと云い出した。余計なお世話だ。まだある。湯壺(ゆつぼ)は花崗岩(みかげいし)を畳み上げて、十五畳敷(じょうしき)ぐらいの広さに仕切ってある。大抵は十三四人っ漬(つか)っているがたまには誰も居ない事がある。深さは立って乳の辺まであるから、運動のために、湯の中を泳ぐのはなかなか愉快だ。おれは人の居ないのを見済(みすま)しては十五畳の湯壺を泳ぎ巡(まわ)って喜んでいた。ところがある日三階から威勢よく下りて今日も泳げるかなとざくろ口を覗(のぞ)いてみると、大きな札へ黒々と湯の中で泳ぐべからずとかいて貼りつけてある。湯の中で泳ぐものは、あまりあるまいから、この貼札(はりふだ)はおれのために特別に新調したのかも知れない。おれはそれから泳ぐのは断念した。泳ぐのは断念したが、学校へ出てみると、例の通り黒板に湯の中で泳ぐべからずと書いてあるには驚いた。何だか生徒全体がおれ一人を探偵しているように思われた。くさくさした。生徒が何を云ったって、やろうと思った事をやめるようなおれではないが、何でこんな狭苦しい鼻の先がつかえるような所へ来たのかと思うと情なくなった。 

                                            小説「坊っちゃん」

そして「坊っちゃん」以前と「坊っちゃん」以後では道後温泉は貴重な松山の観光資源として、文化的、経済的にも全国に通用する松山を代表する文化遺産の地位を築くことができたのです。

漱石という人はそのエッセーを読めば、かなりのへそ曲がりの強情っぱりだろうというのがすぐわかります。

今で言う「ツンデレ」的な属性だってことですね。

「松山サイテー」「ど田舎」「不浄の地」「こんなとこなんかダイっ嫌い!!」などとツンツンしなら、道後温泉で一人になると「ふふふぅ、気持ちイイ愉快だわぁ~♡、べッ、ベツにあんたのことなんて好きでもなんでもないんだからね(●`ε´●)」って感じでデレてるわけです。

ゆえに我々松山人たちは、作中でボロクソに言われようと、ツンデレの漱石タンの言うことだし、なにより自分たちの道後温泉と松山を全国的に有名にしてくれた「坊っちゃん」が大好きなのであったメデタシメデタシ。

ということなんじゃないかと勝手に解釈してるのですが間違ってます?

桜 咲く

P1060810 by GEROPPA
P1060810, a photo by GEROPPA on Flickr.

今年は開花がはやい。

もう11年前になるのかな、次男が保育園を卒園した春も暖かだったんでしょうね、道後保育園の園庭の桜が満開だったのを思い出しました。

あの頃は、ちっちゃくて女の子みたいな顔と髪型がそれはそれはかわいい子で、保育園のせんせい達に奪いあうように可愛がっていただいたんですが、それが今は…(-_-;)

今年卒業する児童、学生たちは卒業式の思い出にも桜が華をそえてくれることになりますね。

恩師や友人、毎日通った校舎や、通学路の景色の一つひとつとの別れの寂しさもありながら、でも未来へと、たしかに踏み出した自分、散る桜とともにまた一歩先へ進んでいく、その未来は光の中にあって、輪郭がよくつかめない。

来年の桜のことなど思いもしないほど、一年が永遠のように長かったあの頃と比べると、ずいぶんと早く毎年の桜を迎えるようになりました。

例年なら誕生日(4月6日)頃が見頃なのだけど、今年は祝ってくれる桜がないのが少し寂しけりと…。

桜開花間近 そのきさらぎの望月の頃


うちの近所のソメイヨシノはもうすぐ開花…来週ぐらいかな。
来週の水曜3月27日は満月、旧暦の如月の望月ですね。

願わくは花のもとにて春死なん そのきさらぎの望月の頃 ~西行~

今年は開花が早く、天気が良ければ満月に照らされた桜を楽しむことが出来そうです、楽しみですね。


佐田岬灯台

Untitled by GEROPPA
Untitled, a photo by GEROPPA on Flickr.

先週行ったのですが…遠かったです。そして寒かったです。

「アラブの春」の正体 ー欧米とメディアに踊らされた民主化革命(重信メイ:著)

私は「アラブの春」の一連の動きの中で、チュニジアやエジプトと、リビアを同列に報じるマスコミの姿勢、特にアルジャラーラの反政府(反カダフィ)勢力支持に偏った報道に強い違和感をいだいていました。

それは私自身がリビアのカダフィと、チュニジアのベン・アリやエジプトのムバラクとはその政治手法も、過去から現在における革命家としての実績とその後の治世においても、おなじような一連の反政府運動の流れとは全く違うなにかがあると感じていたからです。

日本では、例に漏れず、捕らえられたカダフィと直後に射殺された映像がセンセーショナルに報道されたぐらいで、背景や踏み込んだ報道は望むべくもありません。
西側諸国やネット論壇での論調も概ね、リビアも、カダフィが独裁による圧政からの開放、自由を手に入れた新しいリビアという報道が大勢を占めていました。

とくにその世論形成をリードしたのがアラブを代表する報道メディアであるアルジャラーラによるものでした。西側諸国とは論調を相容れることなく独自な姿勢と視点で報道を行うアルジャラーラがリビアのカダフィ政権に対しては特に苛烈な反対姿勢をであったことも私には非常に不可解でした。

日本赤軍のリーダー重信房子とパレスチナ人の父の間に生まれ、中東で育ったジャーナリスト重信メイによって書かれたこの本には、そういった一連のメディアの動きによって作り出されたリビアの「革命」がどういうものだったのかが語られています。

アルジャラーラはそもそもカタール王国が興した報道機関です。
アラブの大国サウジアラビアに併呑されることに常に怯える小国カタールがメディアという力を手に入れ、中東での存在感を得るために設立したものです。

やがて湾岸戦争や、9.11のビンラディン報道などにより、アラブを代表する報道メディアとして存在感を確立し、そのプロフェッショナル集団としての報道姿勢は世界のメディアからも一目置かれています。カタールの思惑で報道が左右されることはないように振る舞ってきましたが、カタールに対してはアンタッチャブルであるというのが事実です。

そのアルジャラーラに実質的には影響力を持つカタールは、アラブの天然ガス利権で競合するリビアのエキセントリックでありながらアラブ社会への強い影響力を持つカダフィの存在を抑えるため、リビア反政府軍に武器、資金、メディアで協力をしようとしました。

アルジャラーラは一連の苛烈な反カダフィ報道によって「反政府の声を上げる民衆をミサイルと銃弾で殺戮する独裁者カダフィ」という報道による印象操作と世論形成に成功を行い、邪魔者カダフィを排除することに成功し、アラブの天然ガス資源をコントロールできる力を手に入れることが出来たという筋書きです。(もちろんこれを影から支援した西側諸国の思惑と連動した動きもあるはずですが、このへんは本書では詳しくは語られていません。)

確かにチュニジアやエジプトの動きはソーシャルメディアをいう新たなチカラを手に入れた国民が、それによって圧政をはねのけ自由を手に入れた物語として語られています。事実そういうチカラが働いたことは間違いありません。

筆者は「メディアによって捏造された『アラブの春』~リビア内戦」の章の以後に

「アラブの春」とひとくくりにされていますが、そのすべてが「革命」だったわけではありません。リビアの例はその象徴的なものだったのです。

と結んでいます。

「アラブの春」の正体    欧米とメディアに踊らされた民主化革命 (角川oneテーマ21)
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中秋望月 ~月と科学と金木犀~

今夜は中秋の名月に当たる日ですね。

 残念ながら台風は過ぎたものの雲に覆われた空なので、今夜は「中秋(に)月(を)望(む)」とはなりそうにありません。

 わが家の庭では、中秋の名月のこの時期、ちょうど金木犀が咲き、甘い香りで庭がつつまれます。 

日本ではお月見には月見団子に酒ですが、中国では、月餅を食べつつ、桂花陳酒(けいふぁちんしゅ:白ワインに金木犀の花を漬け込んだ酒)を飲むそうですね。

 そういうこともあってか、金木犀の香りは月の香りとも言われているようです。

話は変わって 

1969年7月20日 人類で初めてニール・アームストロング氏が月に降り立った日、科学の力が初めて人を月に運びました。どんなにこがれても決して手を触れることができなかった月に人間が科学の力をもって降り立ったのです。
人々は熱狂し科学の力がどんな不可能も可能にし、希望あふれる未来もたらしてくれると信じていました。 あれから43年後の今年、未踏の地に降り立った宇宙飛行士はその栄光につつまれた天寿を全うしました。
 一方日本では、一昨年、未曾有の大地震による災害と、それによって引き起こされた科学の象徴というべき存在の原子力発電所がメルトダウンを起こすという事故を経験しました。 
事故の対応で迷走を繰り返す政治と、「想定外」の事故に責任逃ればかりの原子力学者に対する失望は、科学そのものへの失望と不信感をもたらし、我々は43年前のあの熱狂の日のようには科学がもたらしてくれる未来(ちから)を信じることができなくなりました。 
しかしそうはいいつつも、わたしたちは程度の差こそあれ、かつて科学を手に入れていなかったときのように、夜空の月を読み、日にちや時刻を知る生活にもどることは出来ません。
行き過ぎた消費社会に対する反省を踏まえつつも、豊かでよりよい暮らしを求めることを止めることはないでしょう。
 今、自分が小さな子供を持つ父親なら、今日の月見の日、子どもたちとの話のなかで、月を見て美しいと思う気持ちと同じぐらい、どうやって人類は月におりたったのか、NASAやソ連の宇宙計画はいかにして偉業を成し遂げたのか、宇宙には未だ知らない謎がどれほどあるのか?
なんていうふううに、子供たちが科学的な好奇心を持てるようなそんな日として捉えるのが大切なんじゃないかなんてて思います。 
 ということで、月に想いを馳せつつ 桂花陳酒でも飲みますか。

キノコの話 南仏プロヴァンスの12か月(10月)より

もう10月ですね。
暑かった夏もいつのまにか過ぎて、すっかり秋めいてきました。

秋が近づくと、ふと読みたくなる本があります。
それはこの本。都会を離れ、南仏プロヴァンスに移住した夫婦が、おいしいものを年から年中食べては紹介するというけしからん本です。

 ~南仏プロヴァンスの12か月 ピーター・メイル著 10月より~ 

朝食が終わりかける頃、誰かが窓を叩いた。見ると、ムッシュー・サンチェスの日焼けした丸顔がこっちを覗いていた。彼は、靴が汚れているから、と言ってどうしても中へ入ろうとしなかった、聞けば六時から森へ来ていたという。 

 おみやげがある、 

サンチェス氏は背中に隠していた古いチェックのソフト帽を差し出した。
山ほどあるキノコだった。 

彼はオイル、バター、ガーリック、微塵切りのパセリなどを使ったお気に入りのキノコ料理についてひとくさり蘊蓄を傾け、毒キノコに中(あ)たって死んだ三人の男の恐ろしい話を聞かせた。 

夕食のテーブルに座ったまま白目を向いて死んでいるのを近所の人が発見した、というくだりでムッシュー・サンチェスはキノコの毒がまわって体が硬直し、目の玉がでんぐりがえるところを迫真の演技で再現してみせた。
いや、心配無用。 

この帽子の中のキノコは絶対に大丈夫。その点は自分の首にかけて保証する、と彼は言った。 

ボナ・ペティ!

photo credit: nironadsu via photopin cc

話はこのあと、ピーター・メイル夫妻がムシュー・サンチェスからもらったキノコを食べて、そのスーパーでは絶対にありえない森の香りをたっぷりと含んだ濃密な味の美味しさにおどろいて、さっそくキノコの本と長靴を買ったという話が続くわけですが…。

日本でもひと昔まえは、秋といえば「キノコ狩り」ってけっこうやってたと思うんですが、毒キノコとかの事故があるとたびにニュースになったりとかで、どんどん減ってるんでしょうか?

確かに日本でもスーパーに行けば完全にクリーンな環境で生産されたキノコが安く手に入るけど、なんか森の匂いとか想像できないもんね。

この本の舞台、南仏プロバンスでは、オヤジどもが山の中を一日這いずりまわってとったきのこを、どっさりと薬局に持って行って拡げて薬剤師に毒キノコのチェックをしてもらうらしいです。このシステムなら安心してキノコ狩りも楽しめますね。

うーんしかし読んでるとたまらなく、プロヴァンスの豊かな森の中で育ったキノコ食べたくなります。

南仏プロヴァンスの12か月 (河出文庫)
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河出書房新社
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台風のまえ

20120929@ちょび by GEROPPA
20120929@ちょび, a photo by GEROPPA on Flickr.

明日は四国地方は台風で荒れそうですね。

今朝はまだだいじょうぶかなと思って、散歩に出たとたん雨が降って来ました。
「雨だし、帰ろうか」と言うと、ヨモギの葉をクンクンと嗅ぎながら「もうちょっと」って粘ってます。

プレオープンに行ってきた。@日本料理澤田

先日9月7日の金曜日の夜、うちでも何度かお世話になったのですが、出張料理人として茶道裏千家の茶事にて茶懐石を中心に活動していた知り合いの澤田さんが、この度自分のお店を開店することになり、そのプレオープンの食事会に行ってきました。

住宅街の一角にひっそりと落ち着いた雰囲気「一見」ではまず入る勇気ないよ。

場所は、今在家で久米から農免道路へ入って、サークルKの隣を入って「飯台」を抜けてまっすぐ行った突き当りの右角の平屋の建物です。

玄関を入るとお祝いの花でいっぱい。次々ととどいていました。
まずは「秋味」で乾杯のあと、料理を待ちます。
料理は全部の写真ではなくちゃんと撮れてたものだけ載せてます(すんません、後半酔っ払ってピンボケな件)

ウニが乗った胡麻豆腐

刺身 伊勢海老、イカ、鮑、真鯛の昆布〆
鮑はやわらかく、イカはもっちりねっとりです。伊勢海老もプリップリです。

焼物 鮭の幽庵、ホタテの酒盗(奥にちょっと見えてるの)
ここでスパークリングワインなども。

サーロインステーキ 表面はカリッと中は柔らかくてとろけそう。奥の薬味はミョウガです。
ここでお酒は赤ワインなど。

さらに日本酒、松山三井純米吟醸 キリッと冷えてたまりません。

切子のグラスがお酒の旨さを引き立ててますね〜。

大将の澤田さんがご挨拶に来てくれました。

鮭のご飯は、信じられないうまさ。なんじゃこりゃ。
全員がガツガツおかわりしてました。
最後は初秋を感じる果物で締め。

私は、出張料理で何度かいただいてるのですが、自宅という日常空間とはちがい、雰囲気や、おもてなし、器など、そういったものもすべて料理の味わいの要素ですから、やはり「お店でいただくほうが美味しいんだよな」ということを再確認したわけで、「外食バンザーーーイ、また来るからね!」と酔っぱらいは大満足して帰ったわけです。

正式なオープンは本日9月9日(日)で、来週からはお昼のランチ営業もはじめるとのことです。こちらも楽しみですね。本格的な茶室も備えていますので、希望の方には、お点前もできるコースの設定も検討中だそうです。

お店に行く際にはくれぐれも予約をお忘れなく。

私の方からお誘い差し上げた方への連絡に不行き届きがあり、大変失礼いたしましたことをお詫びします。

日本料理 澤田
住所 791-1106 松山市今在家2丁目2−12 
電話番号 089-968-2788
11:30-14:00
17:30-21:00
9月9日(日)   オープン


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EHIME FOOD STYLE 放送開始!

EHIME FOOD STYLE 放送開始!

FM放送とUSTREAMを融合した番組「 EHIME FOOD STYLE 」が9月1日から放送を開始しました。

AMSではUSTREAMとネットの映像関連の制作とプロモーションで参加しています。

放送はFM愛媛で毎週土曜日19:00~19:30
愛媛の食をテーマにフードライターの藤山健さんと、食材ジャーナリストの近藤路子さんが、毎回ゲストを迎えてのトーク番組です。

↓こちらは番組トレーラーです。↓

第1回放送のゲストは(株)マルブンの眞鍋明さんをお迎えし、一部FM愛媛のスタジオで収録しました。初回の収録ということで緊張しつつも、収録はバッチリ、期待と不安もありつつ(笑)でしたが、放送を聴いてみると、落ち着いたオトナな感じのイイ雰囲気が出てました。

USTREAMは、収録の模様をライブで配信する予定です。(アーカイブも該当のゲストが放送登場後順次アップします。)
次回収録(USTREAM放送)予定は9月6日の夜9:30頃の予定です。こちらもご期待下さい。
USTREAM EHIME FOOD STYLE

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