Stive Jobsがいた世界

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Stive Jobsが2011年10月5日に死去した。
自分のことをすこし書いてみる。
1985年 コンピューターの販売の仕事についた。
初めて使ったマシンはMachintosh128kだった。
店長は「これならお前でも使えるだろう」といってMacPaintでフロッピーディスクのプライスカードを作る仕事を私に命じた。
「キーボードは使ったことがあるか?」
「少し」
「マウスは?」
「いいえ、ありません」
3分ぐらいの簡単な説明を受けて、その仕事にかかった。
TDKとMaxellとNECとFujitsuとCanonの5’2HD、5’2DD、3.5’2Dのカードを、Chicago, Geneva, New York, Monaco, Venice, London,AthensのFontの中からNew Yorkを選んで、StyleをItalicにしプリントし、ハサミで切ってガラスショーケースの中のカードケースに入れ店長のチェックを受け、私の仕事は1時間ちょっとで完了した。

時はNEC PC-9801シリーズの発売で、研究者やホビィストのものだったパーソナルコンピュータが一気にオフィスに導入されはじめた。私の仕事はどんどん忙しくなっていった。

やがて店長になっていた私は売れに売れどんどんライナップを拡げるPC-98シリーズを展示するため、100坪の店内でMacintoshのスペースはどんどん少さくしていった、あのときのMacintosh128kはショールームの端っこに追いやられ、その小さなモニタの上にキーボードを乗っけていた。


1996年 出版社に転職した。
業界はデジタル化への移行前夜の時期だった。System7のフリーズに辟易としながら、毎月深夜まで何千枚の写真をPhotoshopで加工し、QuarkExpressにテキストを流し込む退屈な作業とバカ高いハードウェアとAdobeとモリサワのパッケージを寝不足の淀んだ目で睨み「これはコンピューティングじゃない、これじゃ人は機械の奴隷だ。」と考え行動を起こした。

一年後には独自のWindows+AutoCADベースの自動組版システム導入、自動化のため社内ネットワーク、サーバーの構築、周辺システムの開発を行い、毎月6人が1週間かけた作業は、一台のWindowsマシンが1人のオペレータで2日でこなすようになった。

その後、AppleにはJobsが復帰し、再びイノベーションを起こしていた。
MacOSはPantherになっていたが、DTPシステムのQuarkExpressはOS-Xへの対応が行われなかった。
CTOだった私は、DTPシステムをAdobe Indesignに移行すると同時に、社内からMacを無くし、Windowsへ移行する判断を行った。


2010年 4月末のGW前。
思いがけないことから国内販売に先駆けてiPad(US WiFI64モデルGB)を入手することになった。
Twitterで友人に「二人で開封式でもやる?」とメンションを投げたら、たくさんのフォロワーから「参加したい」というリプライがありそれがまたRetweetされ、またたくまに拡がった。十数人の申し込みと会場提供の申し出がありGWの終わりの日に「開封式」を当時話題になりかけてUSTREAM中継で行った。

AppleによるタブレットPCというコンピューティングの未来の提示と、インターネットでの生中継とTwitterによるリアルタイムなコミュニケーションにみんながエキサイトした。

翌6月に、USTREAMによるレギュラー放送の番組開始を決め、7月7日にそのスタジオのある地名をつけた番組「PStTV(Peace-Street TV)」の第1回を放送した、試行錯誤を繰り返し、多くの仲間を増やし、途中の中断をはさみながらも放送回数は先日45回を超え、私の新しい仕事になった。


そして今、壁紙をMachntosh128kにしたMacbookAirを前にして記事を書く手を止め、LCDの右のiPadにJobsの写真とSteve Jobs 1955-2011の文字を見た。

Stive Jobsがいた世界とStive Jobsがいない世界との違いって…と一瞬考えてやめた。



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